卒業生インタビュー

インタビュー:卒業生の活躍

大好きな大阪で母校に貢献し、そして今、故郷・松山で地元に尽くす

国西 良昌 氏(株式会社ケアジャパン顧問/有限会社マルコク 代表取締役 29 回)

親の反対を押し切って四国から経大へ

1940(昭和15)年、四国・愛媛の松山に生まれました。中学3年生のとき、夏休みに東京でボーイスカウトの全国大会があり、私が愛媛代表に選ばれ参加しました。そこで全国から集まった仲間と共同生活をする中で、世間の広さ、自分の行動範囲の狭さに目覚め、一度県外に出て、いろいろな経験や勉強をしてみたい、と思い始めました。
愛媛県立松山南高等学校時代は、登山部にのめり込み、たびたびケガをして親に心配をかけました。そのため、「大学では、山岳部はやめてくれ」と釘をさされました。また、親からは地元の大学を卒業し、愛媛県庁に就職することを期待されていました。当初、東京や大阪に出ることを反対されましたが、「留年はせず、4年で卒業したらすぐに帰郷する」という条件でやっと許しを得ました。
経大時代は、実はひそかに山岳部に入部する予定でしたが、60年安保の影響や学生生協設立に関わったため、入部のチャンスを失いました。しかし、2回生のとき、どうしても「山」が忘れられず、クラスの有志でワンダーフォーゲル部を設立しました。

日立金属商事でエネルギー革命時代を生き、全国へ

経大卒業後は、親の意向に反して、日立金属商事株式会社に就職しました。最初の赴任地は、九州・福岡でした。当時は、「石炭から石油へ」のエネルギー革命時代といわれ、私は炭鉱関連会社をまわり顧客開拓を行う営業活動を担当しました。営業エリアは九州全域なので、運転免許を取ろうと教習所の夜間コースに通いました。しかし、仕事が遅くなり受講できなかったこともあり、免許取得に苦労しました。結局、九州には14年間勤務しました。その後、静岡・東京・広島など、各地に転勤しましたが、なぜか大阪には縁がなく、愛媛にも戻ることはありませんでした。

先輩の誘いを受け、母校へ

私が53歳のとき、父親が突然、交通事故で亡くなりました。
母一人になり、帰郷するかどうか、ずいぶん悩みました。そのときは、本社からの要請で東京に戻りました。それからバブル崩壊で富山の子会社へ出向の辞令を受けました。
富山で4年半勤務したあと定年になり、今度こそ帰郷しようと準備していたところに、経大の先輩から「大学70周年記念事業の手伝いをしないか」と誘われました。「やっと好きな大阪で仕事をすることができる。しかも母校で」と思い、ありがたかったのです。こうして、大学の総務部顧問という立場で、毎週、月・水・金と「70周年」の仕事を行い、また、同窓会の事務局長補佐という肩書で、毎週、火・木・土・日と、同窓会の仕事を手伝いました。

郷里の母の名を冠したケアハウス

このころは、月に一度は郷里に帰って母を見舞っていました。
母は、私が定年を迎え、松山に帰ってくるのを首を長くして待っていましたが、自宅で転倒して足腰を痛めてしまい、知人のグループホームでお世話になりました。
母が100歳を迎えたのを機に、親から譲り受けた532坪の土地に、私が65歳の時に介護施設を建設しました。母を迎え入れ、また、地域の皆さんに利用していただく決心をしました。介護施設・ハッピー余戸(よし子ハウス)と名付けました。「よし子」は母の名です。
現在は、株式会社ケアジャパン顧問、有限会社マルコク代表取締役をはじめ関連企業などの役員を務め、また地元の民生委員なども務めています。

仕事だけでなく、合唱の趣味も充実

日立時代、私が営業部長をしていたころ、早稲田グリークラブの出身で、直属上司の常務から「ベートーベン・第九(交響曲第9番『歓喜の歌』)」の合唱に誘われました。演歌か民謡しか歌ったことがなかったので、家族から「ベートーベンに失礼だ」といわれましたが、特訓を受け何とか歌えるようになり、東京・両国、富山、松山など18回の実績を重ね、現在も継続しています。いつまで声が出るのかわかりませんが、今後も私の趣味のひとつとして続けていくつもりです。

※本記事は、当初、広報部から松山の国西さんを訪問し取材する予定でしたが、緊急事態宣言により訪問できなくなったため、急遽、国西さんから寄稿いただきました。なお、原文は長文のため、広報部で要約させていただきました。(広報部)

こちらは 同窓会誌「澱江56号」掲載の記事です

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