インタビュー:卒業生の活躍
新しい歴史の挑戦 “郷土岡山に日本一を”
髙田 康隆 氏(岡山県立倉敷工業高等学校・野球部監督・62回)
1974年、岡山県倉敷市生まれ。岡山県立倉敷工業高等学校卒業。1996年(本学4回生時)、倉敷工業高等学校野球部コーチ。1997年、本学経済学部卒業。倉敷に戻り、会社勤めをしながら通信教育で地理、歴史の教員免許を取得。2004年、興譲館高等学校教員、監督を経て母校に戻る。2016年、倉敷工業高等学校野球部監督に就任。
長年、岡山県の高校球界をリードし、甲子園通算出場20回、甲子園通算勝利25勝、プロ野球界には現オリックス・バファローズヘッドコーチ水本勝己、元阪神タイガース投手守屋功輝、中日ドラゴンズ投手福島章太の3名の現役、27名のプロ野球選手を輩出している名門の倉工野球部監督に就任され、新しい歴史への挑戦を続ける髙田監督に岡本(岡山)支部長、松永前支部長がお話をお聞きしました。
監督の日課は
毎朝5時起床、5時半にはグラウンドへ、6時半から朝練、学校では生徒課長として元気な挨拶から始まります。授業終了後、夜8時まで練習。就寝は午前0時頃になります。なお、監督就任後、下宿を立ち上げたことで現在、家族を残して下宿生活をしています。
公立高校なので中心選手10名との下宿生活ですが、選手監督間共通の目的意識が高まり、その成果が今年の選抜出場に結びついたと思っています。
○ これまでの成功例失敗例は
高校野球というのは、夢と希望と感動を与えるスポーツなので、野球だけではなく、コミュニケーションや思いやりなどの“人間力”を高めて、皆さんから応援してもらえるチームにならなければなりません。
前任の興譲館では選手全員と寮生活を送り、24時間寝食を共にしていました。その甲斐あって、甲子園初出場を果たし、応援してもらったファンと選手が一体になることが出来ました。その一方で技術、能力はあるが、人間力が乏しかったことで目前の試合に勝ちきれず、涙をのんだこともありました。勝ったことより選手達の人間力を高められたことが成功につながっていくと思います。
本学へ入学した動機、経緯
現在小松高校(愛媛県)監督の息子さんが本学でマネージャーを務めていたことで、本学を勧められました。また地元より関西六大学で野球をやってみたいという願望もあって、本学を受験、入試では複数校合格しましたが、最初に合格した本学を選び入学しました。
大学当時思い出に残っていること
野球では、プロを目指して大学に進学、1回生から投手として出場し、春のリーグ戦でいきなり優勝するなど、順風満帆のスタートを切りましたが、3回生時に右肘を骨折、挫折を味わいました。その時、恩師から「選手だけが野球じゃない」との助言があって指導者としての道に進むことに決めました。
学業では、3回生まで野球漬けの生活が影響し、4回生になって必死で単位を取ることになりました。また、就職活動では、大学での学びと感性を高めていくことの大切さを身に染みて感じました。
ご家族について
妻と3人の息子の5人家族、3人の息子はいずれも野球少年で、長男、次男は倉工出身です。我が子が部員にいたことで、当時は大変しんどかったのを覚えています。
座右の銘は
相田みつをさんの“一生勉強一生青春”という言葉です。この言葉は自分の人生そのものだと思っており、この言葉で完全に私のスイッチが入ります。
本学との関わりは
本学野球部の山本和作監督とは就任当時から懇意にしており、地元はもとより他校の選手の情報などを交換して、母校の人材確保に尽力しています。
本学の学生に一言
コロナ禍で大変な時期ではありますが、“大変”という言葉は大きく変われるチャンスでもあります。この機会をポジティブに捉えて、自分自身の感性、人間力を高めてもらいたいと思います。
これからの抱負、目標
本校に“夢と志が人生を創る”という校訓があり、自分が歩きたい道標を明確にすれば、まだまだやって行けるという意味であります。選手にこのことを伝えきっていく指導者でありたいと思っています。当校の選手は皆県内の出身者なので、選手が活躍すれば、子供の頃から知っている地元の人たちにとっての喜びはひとしおだと思います。
何事もあきらめなければ、なし得ないことはないと思います。“郷土岡山に日本一を”この目標に向かってこれからも挑戦し続けたいと思っています。
(聞き手=岡山支部長・岡本紳一郎〔47回〕、
前岡山支部長・松永清彦〔41回〕)
こちらは 同窓会誌「澱江58号」掲載の記事です
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